「繭、纏う」

読んだものの感想はこれまで深く考えずにアマゾンレビューに記していたが、つい先日気になってアマゾンの規約を見ると、カスタマーレビューの著作権はアマゾンに帰属するとのこと。

別にお金がもらえるような文章を書けるわけではないし、人の目に触れるという意味では間違いなくあちらに軍配があがるのだが、なんとなく癪に触るのも事実。というわけで、ブログに書き留めるようにしようと思う。

 

さて、仲谷鳰が帯コメントを寄せているとういことで百合界隈で話題になっているこの作品。看板に偽りなし、という感触。

物語・演出・設定の全てが高度に融合したすばらしくテクニカルな作品で、ただただ驚嘆した。

とりわけ、髪×女子校、という組み合わせが秀逸。

 

<美しさ>と<おぞましさ>という、毛髪の持つ二面性を強調するのは、光である。「カラスの濡羽色」という形容からわかるように、毛髪は光に照らし出されてこそ、その美しさを十全に発揮することができる。

一方、和製ホラーに象徴的なように、生きた身体から切り離され、光沢を失った毛髪には、ある種言い難いおぞましさがある。それは毛髪が、本来の所有者を失ってなお、(おそらく腐敗・変形しないことによって)何らかの生命力を留めるように思われるからだろう。間違いなく死んでいるはずなのに、そうとは言い切れない存在。いうなればゾンビである。

劇中ではこの対照性は、屋上で日光を浴びて舞い踊る長髪/役目を終え、自然光の一切とどかない「カタコンベ」に眠る制服として描かれる。いずれのシーンも、一瞥しただけで魅了される、すばらしい見開きだ。

 

そして、この光と陰の演出は、舞台装置たる女子校にも貫徹される。現代の教育施設としては不思議なことに、主人公たちの学園生活のほとんどは自然光を唯一の光源として営まれている。日光は、中庭で互いに慈しむ少女たちの日常を明るく照らし出す一方、校内の営みを薄暗い陰の中に沈めるのである。「籠の少女は恋をする」や「ムルシエラゴ」がよく伝えるように、「女子校」(やそれに類する施設)はおそらくその歴史社会的な文脈ゆえに、強い闇を孕む空間として描かれる。

使い古された言い回しではあるが、「光が強くなればなるほど、闇もまたその深さを増す」のである。

とはいえ、本作品の設定はそれらの先人たちのような、猟奇・嗜虐性にあふれた(それゆえに荒唐無稽な)ものとは一線を画している。この「闇」がなんなのかは今巻ではほとんど明かされない。しかしそれが、少女たちに強い束縛とひとときの安寧を同時に与えるこの学園の、根幹に関わる何かであることは明確に示唆されている。物語の筋立ても含め、ともかく隙のない完成度を誇る作品であり、今後の展開に期待が高まらざるをえない。